任侠の世界に身をおく父を持ち、荒んだ青春時代を過ごす中、仏縁により禅寺に預けられ、仏門に入った釈正輪師。数多くの僧籍を持つだけでなく、クリスチャン、ムスリムでもある釈師の活動範囲は広く67ヶ国を訪問。ニューヨーク国連本部分科会では「宗教と平和について」をテーマに基調講演を行う等、世界的な活動をする釈師が、自らも自殺の淵に立った経験から、僧侶の本分とは何か。またJWティーへの想いについても語ってくださいました。※1 禅宗で修行僧を指導する力量を備えた者を指す尊称。
修羅の世界で学生時代を過ごす
まず私の実家は寺院ではありません。また僧侶になることを志していたわけでもありません。自己を振り返り鑑みてみますと、僧侶になるよう運命づけられていたような人生でした。私には二人の父親がいました。実父は県議を8期、また党の県幹事長を務めた政治家、一方の育ての父は任侠の世界で組を立ち上げた組長でした。環境も一般社会と異なるため、堅気の生活を送ることなどできません。周りからは敬遠される日々でした。高校生の頃は、友と呼べる仲間など一人もいない。街中で突然、父に恨みを持つ者たちに襲われるため、いつも木刀やら凶器を持っていたような学生です。切った張ったの修羅の世界でした。
当時、多くの事件を起こし、退学処分も当たり前の状況ですが、剣道の特待生として入学した私は国体やインターハイ等で結果を出していたので、それが幸いし退学には至りませんでした。しかし高校3年の秋、度重なる犯罪からとうとう鑑別所に送還される判例となりました。ところが家庭裁判所の判事の一人が、寺に縁のある方だったことから、特例で更生施設ではなく、禅寺に預けられることになりました。私の人生の大転換でした
「天下の鬼叢林 」過酷なお寺で修行
荒んだ私の人生を救ってくれたのは、最初の師である梶浦逸外老師※2 と、短大生活と仲間たちでした。禅僧の逸外師に出逢ったのは、師が学長を務める正眼短期大学校舎内でした。短大を訪問した際、校内の廊下で逸外老師と出逢ったのです。師は微笑みながら、私の素性を尋ね、最後に仰いました。「ここに来なさい。待っています」と。驚きました。師の慈愛あふれる尊顔から、私はわけも分からずこの大学に入学しようと決めていました。 ※2 正眼寺の住職であるとともに、後に臨済宗妙心寺派管長になられた大禅師。
実はその時、他の四年制大学に試験合格するも、我が家にはお金がありませんでした。父は刑務所に収監されていましたし、母親が水商売で貯めたお金では入学の頭金にもならない。私は そのことを師に伝えると、「お金のことは後から考えればええ」との一言で2週間後に入学しました。正眼短期大学は正眼寺の境内にあります。正眼寺専門僧堂は「天下の鬼叢林 」と呼ばれるほど修行が厳しいことで有名なお寺でした。 「打撃の神様」と謳われた川上哲治 さんも、逸外老師に幾度なく参禅し、修行僧と共に過酷な坐禅修行をされたと聞きます。後に川上監督率いる巨人軍は、不朽不滅の九年連続日本一を達成しますが、私の短大時代は長嶋茂雄さんや王貞治さんをはじめ、名選手がこぞって毎年参禅されていました。
短大卒業後、僧堂に掛搭 (入門)し、暫く雲水(禅宗の修行僧)をしますが、逸外老師は私に「人の苦しみや悲しみに寄り添える僧侶になりなさい。そのためには、一度娑婆(世俗の世)に出るのもよいだろう」と言われ、私は師の言われるまま下山(寺を離れること)しました。
父の作った3億円の借金を返済する日々 千日回峰行にも挑む
師からの勧めもあり、私はと或る私立高校の教師兼寮監に就きました。教師の仕事にはやりがいを感じていましたが、生徒の事件をきっかけに学校側と対立することになり、さらに出所した父が再び逮捕され実刑となり、組の解散に伴い、父の作った借金は総額3億円。保証人である母に被ってきました。借金は返さなければいけないし、副学長からは「武藤(本名)先生の父親はその筋の方でしたね。そのような環境の教師はうちの学校に相応しくありません」と言われたこともきっかけとなり、学校を去ることになりました。その頃には、師匠は遷化 ※3なされていました。以降の私は多額な借金返済金の為に、金の亡者に成り下がっていました。兎に角、金を儲ける為にはどうしたらよいのかを考え、金融会社に営業職で就職して昼夜休祭日を問わず必死に働き、様々なドラマもありつつ、父親の莫大な借金を全て返済しました。※3 僧侶が亡くなること。
借金返済後は再び仏門に入り、私は自分の因縁を振り払うため千日回峰行 ※4に挑みました。千日回峰行といえば、比叡山や大峰山大峰山 の修行と考える人も少なくないと思いますが、日本全国には同じような山岳霊域が多数存在します。私が行ったのは、七代前の先祖、慈海了空 大禅師が、岐阜県関市にある高賀山 で、千日回峰行を2度満行したと伝わる行場を選びました。その想いを二人目の師である高野山の大阿闍梨に相談しました。師である大阿闍梨は賛同してくれましたが、途絶えてしまった行を復興するのです。周囲の協力がないことには出来ません。そこで私(武藤家)は、遠縁にあたる高賀神社39代武藤三郎宮司の指導の下、千日回峰行を開始します。比叡山や大峰山で千日回峰行を達成した行者には、名誉栄達が約束されますが、私にはそのようなものはありません。権威権勢など無縁です。私が望んだのは、只ひたすらに「自分とは何か」といった自己究明にありました。山での修行は孤独と自然の猛威との闘いでした。熊や猪に襲われ、雪山で谷に滑落し遭難もしました。また不思議な体験もしました。山は神仙であると同時に魔界でもありました。毎日が同じことの繰り返しをするだけの行なのですが、その当たり前のことが奇跡なのだ。そして私は生きているのではなく、生かされていることに気付かされました。 ※4 凡そ千日、山岳を駆け巡る修行。
僧侶の本分は、いま生きている人たちを 救うこと
僧侶の役目とは一体何なのでしょうか。葬儀や法事等の葬送儀礼が僧侶の仕事だと思われていますが、それは根本的に違います。お釈迦様の説く仏教とは、あの世のことではなく、この世を如何に生きるかを示しているのです。現実は苦しみと悲しみに満ちています。それでも私たちは生き抜かなければなりません。生きるとは「死に方用意」です。いつ死んでも悔いのない生き方をしなければなりません。ですから自分を卑下し諌めてはいけない。また他の者を誹謗中傷し、虐待や殺人などは絶対に有ってはならないのです。
現代の日本は危機的状況にあります。誰もが精神的な疾患を抱える可能性があります。国内を見れば、深刻化する不況や、少子高齢化に伴う今後の日本経済の衰退があげられ、国外では、核の脅威に地域紛争の不安。そして地震や台風等、災禍の恐怖が常時付き纏っています。そうした状況の中、私が最も危惧するのは、自らの命を絶ってしまう自殺です。現在の日本では毎年2万人以上が亡くなり、過去には3万人以上の尊い命が毎年、自らの手によって亡くなったのです。
かくいう私も40歳の時に僧侶の身でありながら、自らの命を断とうとしたことがありました。すんでの所で私を救ってくれたのは娘でした。娘は学校から帰宅するなり、私の雪駄を玄関で見つけ、「お父さん、来ているの?」と声を掛けました。2階の部屋で首に縄を掛ける寸前の、ほんの一瞬の言葉に、私は現実に引き戻されたのです。自殺未遂まで追い詰められるには、とても辛い出来事が重なった1年間でした。肝臓癌の発病に留まらず、自らの不運も度重なり続きました。私自身のことは何とか乗り越えたのですが、その1年に知人や信者の7人が自殺で亡くなったのです。僧侶でありながら私は、彼らの発する心のシグナルを見抜けなかった。自分の事ばかりが頭にあり、大切な彼らの苦悩に寄り添えなかったのです。自分の生きている意味さえ疑ってしまいました。もしその時、娘が心の中で「父が帰っているのか」と思うだけですましていたら、私はもうこの世にはいません。だから私もお節介でもいい、そんな声を発し続けたいと改めてその時に思いました。
お釈迦様の時代もハーブで健康維持していた
自殺者のうち約半数は、うつ症状を患っていたといわれています。うつ病であれ、否かであれ、自分だけ頑張れば良いかというと、必ずしもそうではありません。人間には仲間が必要です。話が出来る相手が必要です。私は思いました。JWティーのお茶の会に集う方々の素敵な笑顔を拝見しました。皆さんが集うのは決してJWティーの良さを語りあうだけでなく、心の通う仲間を求めているように思いました。人が集まるのは大切なこと。いま皆が求めているのは人との絆です。お釈迦様の時代でも、僧侶たちは皆で毎日ハーブを飲み、健康を維持していました。一人でストレスを抱えながらJWティーを飲んでいても、せっかくのお茶がもったいない。皆で楽しく笑顔で語り合いながら、JWティーを戴いたほうがもっと健康になれるような気がします。