昨年の東京パラリンピック閉会式、感動的なフィナーレの場面でトリを務めたRIMIさん。SDGsの取り組みが進む現在、音楽に合わせ、手話や全身の動きで楽曲の世界観を表現する手話パフォーマーとして注目を集めます。高音が聞こえず、言葉が聞き取りづらい先天的な聴覚障がい者として手話と出会い、舞台に立つという幼い頃からの夢を叶えたRIMIさんにお話を伺いました。
自分のマイナス部分も包み隠さず伝えることが道を開く
――RIMIさんは「奇形難聴障がい」をお持ちだと伺っています。それを意識したのは、いつ頃でしょうか?
私が意識したのは小学校に入って補聴器を付け始めてからです。小学校1年生の時に先生が私の名前を何度呼んでも返事をしなかった。隣の友達が「呼んでいるよ」と肩を叩いてくれて、やっと気付く感じ。名前を呼ばれたことすらも分かっていない。それが毎日続くので一回病院に行ってみようとなりました。診断結果は「奇形難聴障がい」。生まれつき耳の内部構造の一部分が欠けている障がいです。低い音は一般の方並みに聞こえるものの、高い音は聞こえず、言葉の区別ができません。そこから聴覚障がい者としての生活が始まりました。
―RIMIさんからは全身でエネルギーを発するような明るさを感じるのですが、それは幼少期からですか?
いや、小学校時代はいじめられた時もあったし、補聴器を付けていたことで「お年寄りみたい」とからかわれることも何度もありました。体育の授業ではさすがに邪魔になるからと補聴器を外していて、教室に戻ったら補聴器が盗まれていたことも。ただ、家ではいつもテレビに合わせて歌ったり、踊ったりしていたようなので、もともと明るい性格ではあったのでしょうね。小学校の卒業文集には「大きくなったら芸能人になりたい」と書いています。ただ、今でこそ違和感がないですが、当時は障がいを抱えた芸能人というのはほぼ見かけなかったので心の中では諦めていました。中学・高校と進み、裏方でも良いのでエンターテインメントの世界に携わりたいと写真の専門学校を経て、写真事務所に就職しました。しかし、同期の男の子2人はスタジオに入れてもらえるのですが、私はスタジオに入れず雑用ばかり。女性写真家は少ない時代でした。また、特に大変だったのが電話取り。聞き取れず、いつも受話器を「誰だか分からないんですけど…」と写真家の方に渡していると、「お前は使えない、もう来なくていい」と3ヶ月でクビになりました。次の就職先でも、耳の影響で社員との交流に支障が生じ、耳のことを打ち明けると「明日から来なくていい」とクビに。その頃は髪が長く、耳掛け式の補聴器が隠れていたので、言わなくても大丈夫かなと思っていました。とは言うものの、私の名前を呼んでいるのか、別の人と話しているのか区別できない状態では仕事は難しい。そこからは耳のことを正直に伝えたうえで就職活動し、お仕事させていただくこととなりました。そうこうするうちに、自分のマイナス部分も含めてきちんと伝えることで道が開けることに気付いたのです。できないことはできない、やれることは積極的にする。すると、生きやすくなり、自分も少しずつ明るく変わってきました。
[日本の手話]
おはよう
①右手でこぶしを作り
こめかみにあて下ろす(=朝)
②人差し指を向かい合わせて
曲げる(=あいさつ)
ありがとう
左手の甲に右手を置き手刀を切るように上へ
手話との出会いをきっかけに12歳の時に諦めた夢が目の前に
―実は「手話」を習い始めたのは32歳からとお伺いしました。
29歳の時に近所から火が燃え移り実家が全焼し、その少し前に父は肺がん、母は心筋梗塞を患い、私が家計を支えなければと昼間の一般事務の仕事の他に夜も寝る間を惜しんで働いていました。そんな生活を1年半ほど続ける中で出会った人と結婚することになり、それを機に仕事を辞めました。でも、この性格なので家でじっとしていられない(笑)。そんな折り、「手話講習会」の新聞の折り込みチラシを見つけました。その時まで手話という存在を知らず、どんな世界なのだろうと行ってみたら、私よりはるかに耳の聞こえない方々が手話を使ってお話しながらイキイキとスタッフをしていたのです。それに衝撃を受けました。手話を習い始めてしばらくすると、「耳の聞こえない人と聞こえる人が一緒に活動している団体がいくつかあるよ」と言われ、連れて行ってもらった先が聞こえない人も舞台に上がり、手話で歌って、踊って、演じているエンターテインメントのライブでした。私が小学校6年生の12歳の時に諦めた夢が20年の時を経て目の前に現実のものとしてあったのです。その団体にすぐ所属し、手話パフォーマーというのを勉強させてもらいました。そこから1年半ほどで独立し、今に至ります。
―2011年に手話は日本の法律で「言語」として認められました。手話というのは各国で動作が異なるようですね?
アメリカはアメリカ、イギリスはイギリス、韓国は韓国の手話があります。そして現在、世界的にみると、海外の方とコミュニケーションをとる場合はアメリカ手話が主流になっています。あとは「国際手話」というものがあります。これでしたら世界中の人が見ても分かるというもの。それをお互いが勉強すれば話は通じやすくなりますが、まだまだ国際手話を学んでいる人は少ないですね。
[日本の手話]
おはよう
①右手でこぶしを作り
こめかみにあて下ろす(=朝)
②人差し指を向かい合わせて
曲げる(=あいさつ)
ありがとう
左手の甲に右手を置き手刀を切るように上へ
―これまでの活動で、どの舞台が印象深かったですか?
どの舞台も呼んでいただけただけで幸せで、すべて感謝しています。その中で、私の人生で思い出に残っているのは、ちょうど1年前に開催された東京パラリンピック閉会式に出演させていただけたことです。1964年の1回目の東京オリンピック・パラリンピックの時、私は1歳。もちろん覚えていないですよ。でも、1歳という年齢で東京中が賑わい、そこから年月が経ち58歳という年齢であの場に立てた。そのつながりが自分の中では一番感動的、一番幸せだと思った瞬間です。
―RIMIさんは今回の東京パラリンピック閉会式のトリを飾られました。どのような経緯でご出演されたのでしょうか?
オーディションがあったんですよ。プロ・アマ関係なく一緒にパラリンピック閉会式を作る気持ちのある方を募集という感じでしたので、すごい数の方が手を挙げられたと思います。私は40歳の時から東京ディズニーシーの手話パフォーマーとして約10年間出演していて、当時のダンサー仲間などで集まって、作った映像作品を送り、審査の合格をいただきました。そして、ポジション決めの時に監督から「RIMIさんは仲間のダンサーと離れても良いですか?」と聞かれたので、「私はいつも基本ソロで活動しているので大丈夫ですよ」とお伝えしたら、練習を重ねた後に連絡が来て、「実はフィナーレのタイミングでトリで手話をしてほしい」となったのです。本番を迎えた時の気持ちの昂ぶりを忘れることはないでしょうね。そこで感じたのは、手話を習い始めたことで、自分が心の底から分かり合い、笑い合えるような方々と出会い、運命も動き出したこと。やはり人とのご縁ですよね。色々な方とのご縁を通じて今ここに居れているということは真実です。JWティーを伝えてくれた方も聴覚障がいの友人、手話と出会えたからこのお茶にも出会えたのだと思います。
―ジェイソン・ウィンターズ商品を飲んでみての感想を教えてください。
これまで、あまりお茶というものを飲んできませんでしたが、JWティーはあっという間に飲み切ってしまいます。そして私がこのお茶と出会って思ったのは、飲んでみての感動もそうですが、エネルギー的な感動が大きい。個包装の袋をパウチ化して枕の下に入れたりすると眠りにつきやすい気がしますし、以前本誌でもアメリカの先住民族が乾燥させたインディアン・セージに火を灯し、煙で浄化する儀式があるという話を読みましたが、飲み終わったJWティーの茶葉を炒って、部屋全体にそのエネルギーを回すようにすると心が落ち着きます。バイオプラスはいつも食事の前に飲むと翌日お腹のスッキリ感が違います。こういうものに助けられ、食べたい物を、食べたい時に食べられていると感謝しています。ご時世的に新型コロナウイルスもありますし、生活の中で自分で自分の免疫を高める努力をしたいですね。
RIMI さん
本名:長井利美。1963年東京都出身。生まれながらにして奇形難聴障がいを持つ。小さい頃から歌うこと、演じることに夢を持ち続け、現在は手話パフォーマーとして活動。2021年、東京パラリンピック閉会式では手話パフォーマーとしてトリを務める。父は昭和40年代に中高生を中心に一世を風靡した「マジソンバッグ」のデザインを手掛けた長井恒高氏。