1992年のアルベールビルオリンピックに日本人として初めてモーグル競技に出場し、モーグル界を牽引してきた山崎修さん。98年の長野オリンピックではモーグル競技の解説に際し、親交の深い里谷多英さんが金メダルを獲得し、「多英、すげぇ!」と感情を剥き出しにした解説を行い、一躍話題になりました。これまでスポーツに関わってきた競技生活の中で得た考え方やJWティーへの想いについて伺いました。
モーグル全日本選手権で3度の優勝を飾る
私がスキーを始めたのは3、4歳の頃。
北海道出身だと、それは当たり前です。私たちの生活に根付いていますから。小学校の時には、コブ斜面を滑っていれば、大人のスキー指導員にも勝てると思っていました。
その後、スキーへ本格的に取り組もうと考え、18歳の時にニセコのロッジに住み込みでお世話になりました。たまたまオーナーの奥さんがモーグルの選手でした。コブ斜面は好きでしたが、それまでモーグルはやったことがなかったんです。住み込の年から練習を開始して、翌年の北海道大会で5位に入賞しました。
そして、同じ年の全日本選手権で4位になり、翌年ナショナルチームに所属したんです。3年後には全日本選手権で優勝し、そこから3度優勝しました。
コーチ不在の中、オリンピック出場が決定的に
1992年には、モーグルの日本人選手として初めてアルベールビルオリンピックに出場しました。
オリンピックの出場権を得るためには、世界ランク16位以内が1つのハードルです。米国で予選会が行われたんですが、雪がカラカラに乾いていてまったくうまく滑れませんでした。すごく寒い日だったため、1人で3種目を同時に見ていたコーチが、「もう次の競技に行くからな」と予選突破をあきらめて次の競技のコーチに行っちゃったんです。
しかし、決勝リストを見たら自分の名前が入っている(笑)。もう滑ることはないと普通にウェアの上に数着を重ね着してしまっていたので、慌てて一緒にいた友人にも手伝ってもらないながら服を脱いで、そのままスタートを切った感じです。無難に滑り終えて、最終ランクが12位に。オリンピック出場への大きな第1歩となりました。
今では有名なモーグル競技も、その頃はそれくらい注目度が低かったんです。
しかし、予選突破はうれしかったですね。日本人初ですから。
その後、幼い頃に地元で開催された札幌オリンピックの時に夢見たオリンピック選手になったことで、モーグル競技に対してやり尽くした感があり、3度目の全日本選手権優勝を引退の花道にプロへ転向しました。
98年の長野オリンピックでは、モーグル解説者としてテレビ出演し、(里谷)多英の金メダル獲得に感情を剥き出しにした解説を行ったことで逆に有名になり、バラエティ番組「アッコにおまかせ!」に呼ばれたりもしました。
なぜあの時、感情が剥き出しになってしまったかというと、子どもの頃から、テレビのスポーツ解説で明らかなミスジャッジでも、それについてコメントをしない解説者に対して一言真実を伝えてほしいと常々思っていました。
もし自分が、その立場になったら真実をきちんと伝えよう。ということで、多英が会心の滑りをしたので、「すっげー! やったー、多英!」と伝えました(笑)。それにしても多英のここ一番の勝負強さは、モーグル競技を一気に日本でメジャーに押し上げましたね。
多英は自分の世界に入ると周囲の声が気にならないタイプでした。何事にも動じない強い精神力が、土壇場での突破力を生んだのだと思います。
「復調する」と信じて行動することが大切
スポーツ選手は、ケガとの闘いです。
モーグル競技には、「エアー」という滑り降りる途中でジャンプをする演技があるんですが、私はそれが苦手でした。
ある時、海外遠征中にジャンプの落ち方がうまくいかなくてカカトの骨にヒビが入ってしまいました。3日後には大会がありました。当時はチームドクターも同行しておらず、痛み止めもない。ですから、バンバンと地面にカカトをこれまでにないくらいの力強さでぶつけてみて、演技中はこれ以上の痛みは感じないはずだと言い聞かせて競技に出場したりもしました。
結局、その無茶が響いて、完治するのに6ヶ月掛かりましたが、その時は競技に出場できたんですから思い込みや信じる気持ちって大切ですね。
競技生活の引退後は、プロとしてニセコをベースに活動していました。
しかし、モーグルのエキシビションに参加した際、膝の大ケガをし、自分の思うようなスキーができなくなったためにスキーシーンから遠ざかることがあったんです。病院の先生からは、膝の軟骨を著しく損傷してしまっているため、絶対に治らないと宣告されました。
その後、偶然知人から紹介された女性整体師の方に、「人間の体というのはトカゲの尻尾と同じで、あなたの膝の軟骨は生えるよ!」と言われてからは、膝が治ると本気で信じてケアし続けました。不思議なことに膝は徐々に治ってきました。
2005年シーズンには自分でも過去最高のスキーができるようになりました。
実は、JWティーもそういう想いで作られたお茶ではないかなと思います。
たくさんのお医者さんに見放されたジェイソンさんが、必ず私は回復するんだと祈りにも似た願いをある意味愚直に信じ続けたからこそ、生まれたのではないでしょうか。人間生きていると色々つらいこともあるかもしれません。
しかし、その時に立ち止まらずどう動いたかが重要なんだと思います。整体師の方にもう1つ教えられたことがあります。「壁にぶつかったら、できるだけ自分を客観視しなさい」と。壁にぶつかった時こそ、冷静に高い視点から自分を見つめ直してみるのも必要かもしれませんね。
活動経歴
1964 | 北海道滝川市にて生まれる |
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1984 | 山崎石材工業㈱ 入社 |
1986 | 92年までの7年間ナショナルチームに在籍 |
1989 | フリースタイルスキーモーグル 全日本選手権1位 パンパシフィック大会1位 |
1990 | フリースタイルスキーモーグル 全日本選手権1位 ワールドカップレイクプラシッド大会12位 ワールドカップ猪苗代大会9位 |
1991 | ワールドカップツェルマット大会16位 |
1992 | フリースタイルスキーモーグル 全日本選手権1位 アルベールビルオリンピック出場(この大会より正式種目になり日本人唯一人出場) その後プロとして活動 |
1994 | リレハンメルオリンピック モーグル解説者 |
1998 | 長野オリンピック モーグル解説者 『 多英、すげぇ! 』でお茶の間を沸かせた。 |
2006 | 山崎石材工業(株) 代表取締役就任 |
1964年北海道生まれ。
1980年代から日本のフリースタイルスキーの第1人者として活躍。全日本フリースタイルスキー選手権大会モーグル優勝3回。1992年アルベールビルオリンピックに、日本人として初めてモーグル競技に出場。
その後は引退し、解説者やインストラクターとして活躍。
また、127年続く山崎石材工業(株)の代表取締役も務める。