小鴨 由水さん(元バルセロナ五輪女子マラソン代表)インタビュー

1992年、大阪国際女子マラソンで初出場・初優勝を果たし、バルセロナ五輪へ─そんな劇的なデビューを飾った小鴨由水さん。しかしその裏には、挫折や苦悩、再出発を支えた恩師との絆がありました。走ることに導かれた彼女の半生と、イオス商品を共にした「健康」と「継続」の大切さについてもお伺いしました。

オリンピックを夢見ていたわけじゃない

走ることを本格的に始めたのは、中学1年生の時。陸上部に入り、3年生の時には800メートルで全国大会に出場しました。当時、中学では一番長い距離です。その後は高校、実業団のダイハツ工業と進み、1500メートル、3000メートル、5000メートル、1万メートル、そして42.195キロのマラソンへと距離を伸ばしていきました。もともと「いつかはマラソンを走りたい」という気持ちがあったんです。だから自然と長い距離に挑戦していった感じです。私が中学生の頃に見たロサンゼルス五輪女子マラソン、その出場選手だった増田明美さんに憧れたことが、ひとつの原点でした。実はオリンピックで最初の女子マラソンが開催されたのが、1984年のロサンゼルス五輪。私が出場した1992年のバルセロナで3回目です。もちろん男子マラソンは長い歴史がありましたが、女子マラソンの歴史はまだまだ浅いものでした。でも私自身、走るのは好きでも、オリンピック出場を目指していたわけではありません。ロサンゼルス五輪では、女子マラソンでフラフラになってゴールしたアンデルセン選手、短距離のカール・ルイス選手やジョイナー選手など、錚々たる顔ぶれが出揃い、とても私が同じ大会に出るなんていう想像はしていませんでした。

初マラソンの世界記録、そして代表候補へ

転機が訪れたのは、20歳になった直後に出場した1992年の「大阪国際女子マラソン」です。五輪代表選考レースでもあったこの大会で、私は一般ランナーとして出場しました。ゲストや招待選手ではなく、「完走できればいい」という気持ちでスタートしたんです。緊張もプレッシャーもなかったですね。ところが、レース中盤の35キロ地点で沿道の中学時代の恩師から「記録が出るぞ!」という声が聞こえました。何の記録か分からないまま(笑)、ただ完走を目指して走っていました。練習でも42.195キロを一度に走ったことがなかったので、終盤は人生初の距離。ゴールが見えた時は「やった、終わる!」という達成感しかなかったですね。まさかの結果は、当時の日本新記録で優勝、そして“初マラソン世界記録”を樹立することとなり、一気にバルセロナ五輪代表候補に浮上してしまいました。

現在も朝のジョギングなどを行う。
現在も朝のジョギングなどを行う。

知名度があり、有力な代表候補だった2位の松野明美さんとの差は200メートル、40秒差でした。最終的に代表選手は有森裕子さん、山下佐知子さん、私の3名に決まりました。ただ初マラソンで「燃え尽き症候群」の状態だった私は調子が上がらず、「五輪を走りたくありません」と直訴するまで、精神的に追い詰められてしまいました。そんな中、父と中学時代の恩師が合宿地の米国に急遽来てくれたのです。恩師から「楽しんで走る姿を大切な人たちに見せることが重要ではないのか?」と励まされ、もう一度走ろうと思わせてくれました。

走れなかった私を支えた“恩師のまなざし”

バルセロナ五輪では、スタートの合図と同時に勢いよく飛び出しましたが、強い選手ほど我慢してゆっくり集団についていくらしく、20キロ地点を過ぎた辺りから徐々に後続の選手に追い抜かれてしまい、有森裕子さんは銀メダルを獲得、私は31人中29位という結果に終わりました。練習不足でした。走る気力を失った私は引退を宣言し、ダイハツ工業を退社して実家に戻り、1年ほど何もしない日々を過ごしました。ストレスによる暴飲暴食で体重が20キロ増加したこともあります。そこでも中学時代の恩師がいつも連絡をくださいました。優勝した時などは何も音沙汰が無い人ですが、その時の恩師にしてみたら自殺するのではないかと考えてしまっていたようです。1964年東京五輪男子マラソンで、ゴールの国立競技場に2位で戻ってきたものの、最終トラックでイギリス選手に抜かれて銅メダルとなった円谷幸吉選手(次のメキシコ五輪直前に「もう走れません…」と遺書を残し自殺)が脳裏に浮かんだとのことでした。

色々と相談にも乗っていただき、龍谷大学の短大に進み、社会福祉の勉強をすることにしました。教育実習で教護院(現在の「児童自立支援施設」)に泊まり込みをさせてもらった際に、子どもたちから「なぜ走らなくなったの?」「もう一回走るところが見たい」などと言われ、それがきっかけで福岡の岩田屋の駅伝部に入りましたが、3年後に陸上部が廃部。その後、福岡市障がい者スポーツセンターの指導員として20年近く勤務し、障がい者の方と一緒にスポーツをしたり、機械の使い方を教えたりしていました。また、以前から親しくさせていただいた有森さんが2008年に知的障がいのある方たちへスポーツトレーニングや競技会を提供する国際組織「スペシャルオリンピックス」の理事長に就任したことがきっかけで、そのお手伝いもさせてもらいました。

※不良行為をした、またはそのおそれのある児童の社会的自立を支援する施設。

高齢者にやさしい室内フィットネスのすすめ

夏の体づくりでは、無理をせず軽めの運動を継続することが大切です。特に高齢者や体力のない人にとっては、頑張り過ぎると安全面で不安が出てきます。体を整えてから少しずつ運動を始めましょう。例えば、「e-Home Bike」のような室内でのフィットネスバイクは、外でのウォーキング時に比べ転倒のリスクがなく、暑い日差しや突然の豪雨など天候にも左右されずクーラーの効いた部屋で安全に取り組めます。また、膝に優しく、私も膝を故障した際にはフィットネスバイクをリハビリとして取り入れていたので年齢問わず続けやすい運動法だと思います。昔は20分以上運動しないと効果が出ないと言われましたが、今では10分でも、5分でも積み重ねていくことが大切と言われています。

JWティーお茶仲間の橋本三智子さんと。
JWティーお茶仲間の橋本三智子さんと。

食生活については、以前は甘いものが大好きで止まらなかった私ですが、今は80歳近い母や息子たちの栄養も考えて、たんぱく質やビタミン、ミネラルを意識した食事を作っています。「ナトラプロテイン」も活用していて、飲みやすくて胃に負担がないのが良いですね。一般的なプロテインサプリは胃にもたれてしまうことが多いので、約30年前の現役ランナー時代にナトラプロテインと出会えていたらなんて思ってしまいます(笑)。私の甘いもの好きは遺伝だと思いますが、母も甘いものが大好きで長い間糖尿病を患っています。すぐジュースも飲みたがるので、その代わりにJWティーを出すと自然に飲むようになってくれました。たまにはアイスなどを食べるのもOKにしていますが、その際にはJWティーを一緒に飲んでもらうようにしています。

現在、倫理経営の実践と普及を目的とした「明石倫理法人会」でウォーキング&ジョギングクラブを立ち上げました。月1回、明石公園に集まり、走れる人はマラソンを目指し、歩く人は無理のない範囲でウォーキングに取り組んでいます。健康は継続が大切。無理せず、楽しみながら運動や食事を工夫することで、家族の健康も守れます。JWティーやナトラプロテインなど、自分が良いと感じたことは、周りの方にも伝えていきたいなと思っています。

小鴨 由水 さん

1971年生まれ、兵庫県明石市出身の元マラソン選手。1992年の大阪国際女子マラソンで初マラソンながら当時の日本最高記録(2時間26分26秒)で優勝し、同年のバルセロナ五輪女子マラソン日本代表に選出。引退後は福祉分野での活動を経て、西日本短期大学の非常勤講師および女子駅伝部の監督として、後進の指導にも尽力した。

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「松陰塾明石朝霧校」を小鴨さんが2025年7月から開校

小学校1年生から高校3年生を対象に、「子どもが自ら学ぶ塾」を目的として全国に300校を数える松陰塾の明石朝霧校です。

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